医療翻訳家のブログ

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イギリスの翻訳会社の正社員。20代。イギリスの片田舎に住んでいます。都会に引っ越したい。医療の知識なしで翻訳者になってしまいました。医療関係者ではない視点から、医療英単語やフレーズをどのように訳せばいいのかを解説します。

治療意欲に関する哲学的見解

職業柄、医者の話を聞く機会が多くなりました。そこでふと思ったことを書き留めておきたい。

 

どのような患者に対してどのような治療をするかというのは医療、特にがん患者さんにとって非常に重要です。治療選択に関わってくる要因は臨床的なものから非臨床的なものまで様々なのですが、今回はそのうちの一つ、「治療意欲」について。社会人1年目のペーペーが書いているものなので、お手柔らかにお願いします。また病気も今のところないので、病気の人の気持ちが分かるかと言われたら100%はいとは言えません。

 

「治療意欲」、つまり治療をしたいという意欲があるかどうか。英語ではmotivation for treatmentとか言われますね。治療を決める際、これを考慮するお医者さんは多いです。それはそうですよね。患者が拒否している治療をするお医者さんはいないでしょう。

 

治療意欲にも色々な程度があって、高い人、低い人、まあまあな人がいます。副作用の強い抗がん剤の処方なんかは、治療意欲の有無も結構重要な要素になってくるでしょう。

 

ここからは私の意見です。これはハイデガー存在と時間にあったと思うんですが、子供とか、病気の人は

存在の基盤

 

が違うんです。つまり自分を取り巻く世界ーそれは自分との関わりの中で見出される世界なんですがーの基盤が、子供と病気の人は健康な大人とは全く違っている。

 

これは私はすごくよく分かる気がします。子供だったとき、世界は大人と同じようには見えません。例えばぬいぐるみが生きていると思って話しかけたり、公共の場で騒いだり、という経験は誰にでもあるでしょう。それは子供の存在基盤が違うからそうなるんだ、という話です。「子供である」ということが、世界との関わり方を大人とはかけ離れたものにしている。

 

病気になると、世界が暗く見えます。逆に病気から復活すると、健康だったときに感じなかった幸せを感じたりします。これは「病気」という体も心も支配することが、自己の存在(世界とのかかわり)にまで関わってくるからではないでしょうか。

 

話を治療意欲に戻しましょう。

このハイデガー論が正しいとするなら、病気の人は「病気である」という存在基盤の元に生きているわけです。つまり健常だったときとは存在基盤が違っている。さて、病気の存在基盤のもとに生きる人の治療意欲を、その人自身の治療意欲だと捉えて良いのでしょうか?その人を一瞬だけ健常な状態にできるとしたら、その人の治療意欲は変わってくるのではないでしょうか。

 

平たく言えば、重い病気を抱えた人に治療意欲がなくてもまったく不思議ではないということです。だって病気という存在基盤があるわけですから、意欲が吸い取られていてもおかしくない。

ただその意欲をその本人のものだと判断してしまっていいのでしょうか。

ここまで来ると、またアイデンティティやらナラティブの話につながってきて、話がさらに長くなるのでやめておきますが。

 

じゃあどうすればいいの、と言われてもわかりません。すみません。ただ、「この人は治療意欲がないからBSCでいいよ」と早急に決めてしまうこと(これは極端な例えですが)に疑問を感じます。

 

医者という仕事は大変ですね。患者のアイデンティティを考えるのはもう彼らの仕事範囲外だと思います。患者の病気を治すことに加えて、一人一人の患者さんの人生まで考えていたら身が持たなくなってしまうんじゃないでしょうか。そうした患者の人間的な部分に携わる職業が必要なんでないかな、と思うんですが。海外にはあるんですけどね。

 

それでは今日はこの辺で。

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